昭和48年12月04日 朝の御理解



 御理解 第45節
 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭を下げることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断ををすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」

 三宝様踏むなとは三つの宝と書いてあります。それに穀物の意と注が入っとります 三宝様と言う事は、大切なものという意味に解せられます。仏教でも教えの中で三宝と言う事が一番尊い、大切なものだとされております。ですから仏教的な思想というか、そう言う観念が非常に強かったのですから、教祖様の御理解でもやはりその、三宝と言う事三宝様踏むなと言う事も、言う様な意味にも俗に使われておった言葉と思うです。それはやはり、仏教から来ている。けどもここでは穀物の意とあります。
 大切なもの命の基、ですから大切なものという意味。私共子供の時に、御飯粒がこぼれたりしておりますとね、それを粗末にすると、足が頭につくちゅうて、ばばが言いよりました。それでそれを拾って頂く事を教えてくれました。やはり三宝様を大切にする事を教えてくれたんですよね。大切なものと言う事を、眼がつぶれると言う事も、私は思うんですけれども、肉眼的な眼から信心する者は心眼、心の眼を開けと仰るのですから信心させて頂いておると段々、いわゆる心の眼が見えて来る様になる。
 例えば今まで難儀なと思うとったのが、有り難いと言う事に分ってくる事は、もう心の眼が開けてきた証拠です。肉眼で見るとそれは困ったこと、難儀なことですけども、なら心の眼を以てすると、それは神愛以外にないのです。と言う様にだんだん分ってくるところから、なら降ることも有り難い、照ることも有り難いと言う事になってくるわけです。信心はとにかく有り難くならして頂く稽古ですから、自分の都合の良いことだけが有り難いことではない。
 自分にゃ都合の悪い事であっても、只有難く言えとか思えとかいうのじゃなくてその真相というか真実と言う事は、分ってくるとその有難くない思っいることが、むしろ有難いちゅう事がわかってくる。してみると降る事も降っても有難い、照る事も有難いというような世界が開けてくると言う事が、信心の世界が開けてくると言う事になる。いわゆる幸福の世界が開けてくるというてもいいでしょう。
 私は昨夜、昨夜というか、夜中にバルブが緩んでいて、ずうっとこのお湯が出ているのです。それでその音を聞いて目が覚めた。あら何かお夢じゃったばいのと思うて、それをそのことをお願いさせて頂きよりましたと、ある人の難儀な事を頂きました。本当に人の真似の出来んような信心しとんなさるけれども、バルブを閉めるというかもう一締めというか、もうひとひねりと言う所が足りんのだ。だからてん、てんてん、てんとお湯が出でいるもんですから、いつも音がゴ-ッとしているわけです。
 いわゆるお粗末になっておる。それで私は必ず夜中にここにまた、御祈念に出てきますから、ゆうべ出て参りましたら、食堂へ来たら、なるほど熱い方のお湯がてん、てんてん、てんと出てました。本当に言うなら水を使っても電話使っても、同じですけども、必要ならどれだけ使っても良いけれども、その一捻のところをお互いが、お粗末にしておるように思うんです。
 私等も本当にあの、やはり神様の御ものであるとか、神様の御恩徳が少し分って来ると、粗末に出来るものじゃありませんけども、必要なだけは使わしてもらう事が有難い。私はもう三時半に出て来ると、もうスト-ブが入れてございますから。もう部屋が大体温まっております。それでも私はあのう必ず四時にこの御神前に出ますから、もう必ず五分前に必ずスト-ブをこれは必ず切ります。
 四時には必要でなくなってくるのですから、五分間位はもうあのいうならば、暖かいのが急に寒くなることはありませんでしょう。一日で五分間ですけれども、十日になってごらんなさい。一ケ月になってごらんなさい。一年、十年になってごらんなさい。それこそ塵も積もれば山となる。それはケチンボの精神じゃないのです。神様の御恩徳が分るから、大切にするのです。問題は心がけなんです。
 本当にちょっとしたその心がけが言うならば天地を動かす程しの働きになってくるのですから恐ろしい、又ちょっとした不心得がです、それこそ蟻の一穴から堤防が切れるとまで言われてる。蟻の穴位の所からよかよかとほっからしとる所から、水がたらたらたらたら出よる。それがその堤防の決壊するような結果になってくるのですから、かというと塵も積もれば山となる。
 例えば私がならスト-ブならスト-ブを、皆さんが三十分使われる所を私が二十五分間、五分間だけします、それが先に五分間例えばあのう使わないと言う事は、ほんの心がけです。三時五十五分になったら私はぴしゃっとスイッチを切るんです。それは一朝は五分間ですけれどもそれが十年、二十年一生になっご覧なさい。しかもそこからおかげが漏っておると言う事になったり、それがお徳をうける基になったりするのですから、三宝様踏むなと言う事は、大切なものを疎かにするなと言う事なんです。
 いわゆるよかよかこの位の事はよかよか、そのよかよか主義が言わば昨日私がお知らせ頂きましたようにです、本当に人の真似の出来んような信心しとんなさるにも拘らず、その難儀様相というものは、私が見た時には、はぁあおかげ頂かしゃれりゃにゃいけんなあとこう思う。それがお湯を使う事は決してお粗末でも御無礼でもない。いや有難く使うから有難いのです。けれども最後のスタンスタン落ちよるそれが御無礼なるのです。もうそれこそ一捻りそこんところは心がけです信心は。
 これは信心に限らんのですけど、何事にでもその心掛けとと言うのが大事です、本当にそうだなあと思うてここへ出てから、その事をお詫びしたり御礼申しさして頂いたりしとりましたらね、平仮名でね、こくろうさんと頂いた。一寸書いてみて下さい。平仮名でこくろうさん、平仮名でかいて、そのこという字に‥を打ってご覧なさい。どう言う事になりますか。こくろうさんでは意味は通じませんでしょう。
 ところがここに点を、唯てんを打つだけで、ごくろうさんと言う事になるでしょうが。もう私はそれを頂いてから、本当にね、信心させて頂く者は心掛けというものが如何に大事かという事を感じました。勿論神様は氏子に対して有難うと言うとられるわけです。けれどもこくろうさんでは有難うならんでしょうもん、只その点々に、只その点を打つだけの事で御苦労只神様から、神が一礼申すとおっしゃる。教祖様の場合なんか、神様が金光大神に対して、いつも一礼申をしておられた。
 この方のような実意丁寧な氏子がおるから、難儀な氏子が助かるんだと言うておられた。神様の一番大切な難儀な氏子が助かっていく、それはお前の実意丁寧と言う事は行き届くと言う事だと思う。いわゆるもう一押しの所が、人とは違うておったと言う事なんです。これは私自分自身の事を言うておかしいですけど、私はいつも思うんです。私の信心が、どうだと言う事ではないけど、私はの信心を振り返って見てです。
 もうここんところを人が疎かにする所を、何でも無い様な所を、私は疎かにしなかったと思うです。それがいうならば、神様から御礼を言うて頂くような事になってきた。それが現在私がおかげを受けておる。神様が私に対する御礼のしるしが今日のこの私しのこのおかげです。そうでしょうが。下さい下さいと言うて貰たっちゃなかもん私しゃ。願う頼む前に神様がちゃんと、先廻りしておかげを下さることはいうならば、神様が御褒美を下さるようなものだ、有難というている姿でしょうが。
 それをこちらが、やあやあひったくるような、おかげを願う。貰うたのでも頂いたのでもないと言う事なんですよ。皆さんの場合は何か、こ苦労さんのような感じがするね。意味が意味になっていないのです。もう一押しもう一ひねりと言う所でしょう。信心は私はそこを大事にする、お道の信心のまぁ筋金というならば、実意丁寧神信心と言われとります。実意をもって丁寧に、大した事じゃないです。今日は私は皆さんにね、本当に心掛けしだいでは、簡単に出来れること。
 その心掛けると言う事が信心を心掛けておる事ですから、いつも自分の心を、神様に向けておる事になるのです。心を神様にいつも向けておるから、おかげを受けるのです。忘れない。私は始末倹約と言った様な事はね、私は大した事はないと思う。始末倹約をする、成程始末倹約で貯めあげなさったという人もあります。けどそういう人に限って、こんだぁ出すときには非常に惜しむです。そりゃそうでしょう、それこそ血の滲むようにして、人よりか働いて、食べるものも食べきらずに貯めたんですから。
 なかなか出せません。だからケチンボ精神とは違うです。一滴の水の中にでも、一粒の米の中にでも、天地の御恩徳がこもっとると思うから、粗末にはされんのです。それが生かして使って下されば、神も喜んで下さる。私共も嬉しい。電気でも例えばどれだけ使っても構わん。それこそ百燭光一万燭光使ったって構わん。必要な事であるならば、けれども、五燭球一つでもです、私は無駄な事に使ってはならない それも神様の御恩徳がわかればわかる程、そうさせて貰う。
 それが積もり積もっておかげになってくる。そういう大切なものを大切にさせてもらうところにです、例えば、反故紙一枚でも、神様の御徳を思うたら、お粗末には出来ない。それを大切にするから、神様が喜んで下さらんはずはない。神様の御ものを大切にするから、ごくろうさん、有難とうとこういうて下さる。これ程しのことが出来でおるにもかかわらず、ほんの最後の一捻りが出来んばっかりに惜しかねえ、この氏子ばかりは惜しかと、神様がお思いになって、神様が有難とうと仰らん。
 こ苦労さんとしか仰らん。神様がごくろうさん、神様が一礼申しすと言われる程しのところを、私は身につけて行く事がお道の信心者の私は、信心の姿勢でなからなっければならないと思う。 今日は世に三宝さま踏むなと、三宝様踏むと眼がつぶれる。まあそこのところをだけを、まあ聞いて頂いたようなわけです。三宝様にも匹敵するような大切なことを、これはなら水道とか電気の事だけでは決してありません。
 事柄の中にもあるのです。神様の御働き、そのものを御粗末、それからと言うてそれは、始末倹約的なものではない。よく似ておりますけと、内容が違う。それこそ一銭の金でも神様の御物だと思うたら、大切にしなければおられない。けれども事、神様のお喜び頂ける事であったら、それこそ百円の金でも惜しむどころか。もう有難いものを副えてそれを放す事が出来る。
 今時一銭でん百円てん言うても、ピンとこんですけども、だから千円というてもよいでしょう。千円の金をです使わせて頂く時に、私共がそれこそ、一万円十万もの金を使うごたる心で使わせてもらう心持ちなんだ。そして、なら事、神様という時には、その百万円か千万円であろうがです、もう、それこそ有り難いものを副えて、放せれるようような心の状態。ケチンボはそれが出来ません。
 始末とよく似てますよ、けちけちするところはよく似てます。皆さん私しの事をまぁ本当に、親先生はけちだと言いよんなさる人があるかもしれません。けれども私のはけちじゃない。神様の御恩徳がわかるから、そうせにゃおられんのである。その証拠には、私しはこと神様の事となる時には、もう全財産をいつでも手放せる気であります私は。それはけちじゃない証拠です。そこが信心というならば、道徳の違いないです。
 いうならば修養というならば、修行の違いなんです 信心はどこまでも、やはり別世界です。皆さんの心の上に思いあたる事があるなら、はぁ私こそこの一捻りが出来ていないのだと、だからおかげがおかげにならずに、こ苦労さんになっておるんだと。神様からいうならば、御苦労さんと、願わんでも頼まんでも下さる程しの、おかげを頂ける。もう徳を受けられる、神様の御信用を頂かれる、そういうおかげを頂くと言う事は、私共心掛け一つなんです。
 私がならスト-ブを五分間早く切ることも、水道を使った時に、ほんなちょっと、ろくそうな事をしとりますからてん、てんてん、てんと電気がだなだんいつもいっておる。モ-タ-はいつも廻っておるという結果になっておるお粗末御無礼の基をつくる。一捻りが足りないばかりに、そういうおかげが受けられる世界とおかげの受けられない世界とはいうなら紙一重、その紙一重の所を大切にしていく事が、お道の信心、実意丁寧神信心とは、そう言う様な事だと思うですね。
   どうぞ。